6/5あるいは机上の恋人へ

去年の自分が書いた文章、痛々しくて見ていられない。あれは私ではないですと言って責任逃れしたい。どこかの二次創作で見かけたスワンプマンの話が気に入っている。苦しいときに、自分は新しく沼の底で生まれたスワンプマンだと思い込む。この安息は長くは続かないが、一瞬気が楽になる。あれは私ではない。

ふだん日記を書きたいときは(もちろん非公開の)グーグルドキュメントにばっと書き込んでおしまいにする。なぜいまこっちに書き込んでいるのかあまり考えたくない。自分の自己顕示欲みたいなのは永久に気持ち悪いなと思う。

友人との関係を、父親や伯母に褒められたことを思い出していた。この前の夏、彼女は私と一緒に私の実家に泊まって、けれど毎日私と過ごすわけではなく、各々が各々の友達に会いにゆき、お互い自由に過ごした。「自由な感じでいいじゃん」と父は言い、「あつい友情だね」と伯母は言った。彼女と私はかれこれ十年来の仲で、十年の間に彼女は遠い遠い町へと引っ越してしまったけれど、私は飛行機に乗って彼女に会いに行ったし、彼女も同じように私に会いに来てくれた。実際素敵な友人だ。

でも、大人はなんにも分かってない、と子どもみたいなことを思う。十年の間に、直線的に彼女との友情が蓄積していったと思ったらそれは大きな間違いだ。彼女がどう思っているか知らないけど。

小学六年生のとき、帰り道に私ではなく、もう一人の友人と必ず腕を組む彼女が妬ましかった。私と腕を組んでほしかった。

中学一年生のとき、まだツイッターでなくLINEを毎日かわす時期だったあの頃、「愛してる」とLINEで言われた。突然彼女は私の方を振り向いた。大好きだったはずの彼女からの愛の言葉が、妙に怖くなった。クラスが違ったから毎日会わずにすんだ。

中学二年生のとき、小学二年生ぶりにクラスが同じになった。「君たちって親友だよね」と周りから認識されていて、嬉しかった。けれど久々にクラスの中で話しかけた彼女は、あまり私にかまってくれなくて、私が一番ってわけじゃないみたいだった。当然同じグループに属すものだと思ったけど、結局違うグループで過ごすことになった。

中学三年生、またクラスが離れた。私は些細な色々で病んでて、またあまり顔を合わせなくなった彼女の存在が、暗い心の中で明るく膨れ上がった。きっと彼女の一番は私ではなくなったけれど、それでも私は彼女のことが一番好き、と思った。世界が滅んで、彼女と私だけになればいいのに、と思って、希望にしていた。そうしたら面倒な色々はすべてなくなるし、彼女は絶対に私と話してくれるのに。

高校一年生の春、彼女はツイッターで、私が一番の友達だと思っている、と明言した。私が密かに思っていたことを、彼女の方から言われた。衝撃だった。これが両想いってやつか、と思った。ツイッターで互いの認識を確かめた後、現実で会ったときはちょっと気まずかった。どうしてだか忘れたけど、その時テンションの低かった私を彼女は軽く慰めて、頭を撫でるか、肩を叩くか、なにかしてくれた。とにかく、ふれてもらったことだけ覚えている。そういえば彼女は、LINEやツイッターでは饒舌に愛をささやいてくれるけれど、現実で言ってくれることはない。

高校一年生の秋、彼女はツイッターで、退学しようと思っていると告げた。学校を休みがちなのは知っていたけど、退学の話は聞いていなかった。なんの相談もなかった。彼女のおばあさんの家がある、遠い遠い県に行くかもしれないともつぶやいていた。遠すぎる。私は、彼女が学校生活の希望だったのに、彼女は私を学校に置いて、この街に置いて、どこか遠くへ行きたいらしかった。私は彼女の希望ではなかった。現実味がなくて、悲しいのかもよく分からなかった。淡々と彼女の言葉だけがあった。やや怒っているような文章を、とっさに返した気がするが、本当に自分が怒っていたのかはよくわからない。ここは怒ってしかるべきシーンじゃないかと思って、そういう反応をしたように思う。

高校二年生、彼女は退学した。私は、高校に入ったときに新しくできた友達と、よく遊ぶようになっていた。

高校三年生、彼女は結局、私がいる街でも、彼女のおばあさんがいる街でもなく、もっともっと遠い町へと引っ越した。たまに、ツイッターで、LINEで、好意を伝えてくれる。もうしばらく会ってないじゃない、と私は思う。声も聞いてないじゃない。私はあなたの文章より、あなたのツイートやLINEより、あなたの声がつむぐ言葉が好きだよ。一度、LINEで「付き合おう」と言われた。もうずいぶん会っていないのに、付き合ったところでこんなに距離が開いていて、顔を合わせることすらできないのに、どうしてそんなこと言うんだろう。断った。私は、文面上の彼女が好きなんじゃない。現実で会う彼女が好きだったのに。私の所有権だけ獲得して、何か嬉しい?

私たちの友情は恋に似ていたと思う。私の恋はもう終わった。彼女の方がどう思っているかは、知らない。私は、私の近くにいてくれる人が好きだ。このやり方が正しいのかは知らないけど、私の中では、私を現実世界で大事にしてくれる人が一番好きだ。

高校で出来た友達は、同じ府の大学に進学した。今はその子とよく遊んでいる。

私たちの友情は、傍から見たら美しく思えるのかもしれないけれど、これはただ蜜月が終わったあとの、淡々とした空気の中にいる恋人たちのようなものだ。そのことを、誰も知らない。私がまだ蜜月の中にいたら、泊まりに来た彼女を自由に遊びに行かせただろうか。

だけど、彼女が退学してからも、遠い町に引っ越してしまってからも、そういうことを延々と考え続け、彼女を憎らしく思い続ける私は、まだ彼女の愛憎のさなかにいるのかもしれない。愛情と憎しみは同じものでしょう。彼女が別の子と腕を組んでいたあの頃から、なんにも変わっていやしないのかもしれない。だから、こうやって文章にしているのか。

余談だが彼女は男尊女卑を公言するなど(ミソジニーってことなんだろうか)独特な考えの持ち主で、彼女に焦がれることのなくなった私は現在、彼女のことを教祖みたいなものだと思っている。彼女の思考は私にとっては思いもよらないものばかりで、無意識のうちに影響されてしまう。とても魅力的な人だから、私の好きな人が彼女に取られたらどうしようと、実現性の低い心配をしてしまう。

(ないとは思うがこれを見つけてしまった君へ。わたしが大学卒業するまででいいから、京都においでよ。31あるし。)